是枝裕和这部电影的摄影手法和场面像诗歌一样美,叙事编排像悬疑小说一样缜密,三个视角的设计让人疑问的同时思考。两个小演员表演自然,越是别人看起来模糊的感情其实彼此心里越是确切,那个废旧的电车的秘密基地,在学校里刻意的不搭话、保持距离和放肆对方被校园霸凌,在学校外面的亲密和暧昧,那个因为一方落荒而逃而没付诸的吻,那句“有时我也会这样”,那句“男孩如果知道所有花的名字就恶心吗”,听到母亲在车里说要像父亲一样组建普通家庭时的样子,发现对方不见一个人在秘密基地里徘徊、在隧道里自言自语“谁是怪物”、对着父亲的遗照小声嘟囔“为什么出生呢”、两个人在狂风暴雨中尽情肆意过后去往了一个不被打扰、可以迎着光奔跑的世界……
导演讲了一个简单但不轻松的故事,少许的刻意和套路在音乐和画面里全部都得到了原谅,那些唯美的画面和朦胧的瞬间正是再确切不过的年少时的情愫和爱意,探不探索性取向什么的,校园暴力怎么发生的,教育系统的问题、单亲家庭里的孩子的成长什么的,是被提及的,但或许并不是这个电影所想要讲述的核心,核心可能很简单,是在剧情里描述一种美好的状态,一个穿越隧道后抵达秘密基地后的那种自然的情感,就是两个少年的遇见和陪伴,是爱情,核心真的是什么探索吗?不过是爱情在沮丧现实里的自然发生。
是爱情,绝不是什么被人故意词不达意、似是而非所归类为的友情,因为在这样的场合说友情的人心里就是不愿承认两个小孩子、两个男孩之间也可以有爱情,这种逻辑本就充满了回避和歧视。这个影片一种对比性的魅力就在于,现实那么糟糕和残酷,爱情却可以那么简单和美,换句话说,现实的痛苦那么确切,可是爱也可以那么确切,这样的爱可以被称作时怪物,虽然看起来怪,却纯粹得让人向往,虽然总有观众喜欢把它称之为友情,称之为性取向探索,当我们谈论异性恋的时候从不需要用到“性取向探索”这个词不是吗,这不也是一种双标。同样地,虽说这部电影里的单亲妈妈、男老师、女校长和两个少年多多少少都是种被边缘化的人,对于同性恋来说,我们不应该有一个刻板印象就是单亲母亲家庭里的男孩就容易变成同性恋,这显然并不科学,不具有生理学和统计学的意义,所以说我们还是应该有所注意的就是这部电影虽然融合了各种所谓的“怪物”,但社会中每个边缘群体的所谓的“成因”和状态都是格外复杂和多元的。
电影放映结束,出来的路上,一位工作人员询问电影怎么样,我们都说很好,也都很喜欢。以为对话到这里就结束了,工作人员却接着说,他觉得怪物这个名字很可怕,不太敢去看。这可能就是许多人对这部电影最初的印象。
当然了,这部影片中并没有什么真的怪物,又不是《哥斯拉》。怪物只是一个象征,一个隐喻。那么,怪物在这部影片中到底指代了什么?
怀疑自己孩子在学校遭受了不公平对待而反应过激的单亲妈妈,为了保护学校声誉而默默承担一切从而遭受非议的小学老师,因为同学异样的眼光而不敢和自己的朋友有任何亲密举动的小朋友,这就是这部电影的全部,伴随着每个人物的视角,故事徐徐展开。
单亲妈妈通常被认为会对自己的孩子进行过度保护。安藤樱饰演的单亲妈妈最近注意到了自己儿子的异常举动,门口只剩下一只的sneaker,房间莫名出现的打火机,包裹着伤口的耳朵,以及儿子询问,自己是猪脑吗?种种迹象表明,自己的孩子在学校遭受了不公平对待,因此多次来到学校询问事情缘由,并要求校方能够道歉和辞退自己孩子班上的老师,否则会以转学为由相要挟。要辞退班上的老师,并非无脑之举,因为她还听说这位老师曾经出现在风月场所酒吧,这样的人怎么能做老师呢?即使校方多次避重就轻,尝试减轻事件的恶劣程度,但最后还是召开了发布会公开道歉,并停止了涉事老师的一切工作。看起来,自己争取的正义终于得到了伸张。
有道德瑕疵的人不配做老师,哪怕只是一个传言。永山瑛太饰演的小学老师最近正在与一位曾经在酒吧工作的女孩子约会,生活有滋有味,甚至偶尔想和女朋友零接触。但是最近班上一位学生的古怪行径引起了自己的注意。他看到一位学生被反锁在厕所里面,而这起恶作剧好像和一位沉默寡言的学生有关,而且这位学生还莫名在课室肆意扔其他人的物品,甚至据有同学反应,这位古怪行径的同学被人看到虐待流浪猫尸体。在一次班级冲突中,这位沉默寡言的同学和另一位同学扭打了在一起,老师在试图把两人拉扯开时,却不小心误伤到问题同学的鼻子,流了鼻血。但是事情的发生却出乎了老师的意料,他被告知,有位单亲妈妈认为老师殴打了自己的孩子,需要向这位学生和家长道歉,并暂时接受停止工作。老师试图解释这一切,但校方认为他们有处理单亲妈妈的经验。遂老师接受了提议,道歉并离开了学校。事情的发展再一次超乎意料,周围人都认为自己是个问题老师,女友甚至离开了自己,绝望之际,老师想以结束生命的方式来结束这一切。
所有人都在远离的人,我也要保持距离,哪怕他是自己最好的朋友。黑川想矢饰演的小学生在城北小学就读,他早早没有了父亲,但是和母亲的关系看起来很好,不过他最近也有一些烦恼,但是却不能和妈妈分享。班上有一位同学遭受了其他同学的针对,并传言这位被针对的同学身体很脏,是人身猪脑。可是他却并不这么认为,他想要和这位同学说话,分享食物,看到这位同学没有了鞋子,甚至把自己的sneaker脱下来,一人一只。两人私下里,成为了非常要好的朋友,一起来到一处废弃的火车,玩 “who is the monster” 的游戏,亲密无间。但是, 在其他同学面前,两人形同陌路,从没有交际,他不会阻止其他人对自己好朋友的恶作剧,甚至有时会加入其中。他很痛苦,却无法告诉自己的妈妈,只是曾经问过妈妈,自己是人身猪脑吗?他想要告诉自己已去世的爸爸,却也难以开口。他想到也许可以请求自己老师的帮助,因为他认为自己的老师是一位为学生着想的老师,所以他和好朋友一起给老师写了一封信,诉说了自己痛苦。
三段故事展现了三个视角,这三段视角的汇集点,在一段铜管乐。单亲妈妈去医院看望自己的孩子,发现病房的窗口是打开的,妈妈非常担心自己的孩子会轻生跳楼,当走进后发现是虚惊一场。此时背景隐约响起了一段嘈杂的铜管乐。小学老师在忍受周围的非议,女友离开之后,产生了轻生的念头,来到学校的楼顶上,万念俱灰下准备跳下结束这一切,远处的琴房响起了一段铜管乐,像是在呐喊,像是在诉说,而老师仿佛从中听懂了什么。学生来到琴房,想要找人诉说自己烦恼,他碰到了正在琴房的教导主任,学生说自己撒了谎,却不知如何面对。教导主任递给他一把长号,并告诉他,那就把一切都吹出来吧。就这样,两人在琴房吹起了此起彼伏的号声。
而这所有的一切,都在一场暴风雨之后结束了,因为两个小朋友认为他们在暴风雨之后就会获得重生,不用再遭受身边人的议论。暴风雨过后,是一个晴朗的午后,他们一起奔跑在草地上,即使他们还是现在的模样。
影片中没有出现哥斯拉式的怪物,而人们的偏见和隔阂却比怪物还要凶猛,它使人们变得冷漠,变得遥远,可以吞噬掉一个人的良知,毁掉一个人的生命。怪物在人们心里,不在路上。
两个小孩子真的太可爱了,彼此之间的互动也很有爱。喜欢从不同人的视角叙述同一时间看到的事情的不同的一面的方式。人言可畏,是对这部片子的最大感触。只是一句话而已,只是一个动作而已,只是看了一眼而已,就足够一个离奇并且具有毁灭性的故事开始传播开来。真相是什么已经不重要了,人们只是在相信自己相信的,总是如此。好希望那些欺负星川的孩子们能知道自己到底在干些什么。安藤樱还是一如既往的出色。保利老师也的确是谣言的受害者。全片最恶心的就是星川的爸,不能当父亲就不要当,不会做人就早投胎。特别喜欢后半部分两个孩子的戏份,特别是凑去找星川,星川一开始说了违心的谎,但后来还是说出了真相即使会被揍。喜欢他们的秘密基地,那列废弃的车厢,在暴风雨中好像重新再行进一样。还有他们玩猜词游戏,凑说星川总是放软自己,对一切都不去理睬。星川总是被欺负,但也总是无所谓,不让那些欺负他的人看到所谓的“反应”。像男子汉一样,成家立业,这些话妈妈和保利老师都对凑说过,也都使凑做出了比较极端的行为,因为他知道喜欢星川,就做不到大人口中的“正常”了。关于校长,不知道应该怎样形容才好,大部分时间都觉得她不像人,也许从孙女死后她也就是行尸走肉而已,但在音乐教师里她教凑吹号,又感觉并非如此。
真相被谣言掩盖
谎言引出真理
人之初也许可以性本恶
冷漠也是仁慈
恨就是爱
死亡带来重生--拨开泥土后再重新奔向阳光明媚的日子
ps:看了六本木首映礼,坂元裕二/是枝裕和/瑛太/安藤樱和两个小男孩的登台。
大家讲了戛纳趣事,坂元是在走红毯第二天拉肚子,导演是跟北野武合影--奇跡のツーショット,瑛太是因为记者/闪光灯太多而激动的会双手跟大家致谢结果看起来像宇宙人。
本文翻译为人工智能翻译(OpenAI),如有错误请谅解。
MC MC戻ってきたばかりの監督からご挨拶をお願いいたします。
请刚回来的导演向大家问好。
是枝監督(以下、監督) 是枝导演(以下简称导演)2時間くらい前に羽田についたばかりなんですけれども、この作品にとって本当に素晴らしい評価をいただいたなと思っております。無事にこの脚本賞の盾を、僕が運んだわけではありませんが、坂元さんにお渡しできすることができて、ちょっとホッとしています。今日は有難うございます。遅い時間にすみません。
我大约两个小时前刚到羽田机场,对于这部作品获得如此高度评价,我真的感到非常开心。虽然不是我亲自运送的,但我很庆幸能够将这个剧本奖的奖杯交给坂元先生。非常感谢今天的机会,时间这么晚了我表示抱歉。
MC MC一足先にご帰国されていましたが、この度見事受賞されました坂元裕二さんよりご挨拶をお願いします。
虽然您已经先一步回国了,但是我想请坂元裕二先生代表我们向您致以最诚挚的问候和祝贺。
坂元裕二(以下、坂元)こんばんは、脚本家の坂元裕二です。本日はお越し下さり有難うございます。
晚上好,我是剧本家坂元裕二。非常感谢您今天的光临
こういう場に出るのは初めてですので、とても緊張していますが、どうぞ宜しくお願い致します。
这是我第一次参加这样的场合,所以我非常紧张,但还请多多关照。
質問者 提问者今回はおめでとうございます。受賞されてトロフィーを今受け取られたばかりですが、
恭喜您这次的获奖!您刚刚领取了奖杯,真是太棒了!
そのトロフィーの重み、実感みたいなものはいかがですか?
那个奖杯的重量,你有没有真切地感受到它的存在?
坂元実感は正直あまりありません。まだ受賞を初めて聞いた時に寝ていたものですから、第一報を聞いた瞬間、まず初めにまだ夢を見ているのかなと思いました。その後もまだ続いているようで、今も夢の中にいるような、そんな思いと、ただこの重み自体がやはりこの作品の責任感だと感じますので、そこは私自身、手にも背中にも乗っかったとても大きな責任だと感じております。
实感实在不多。当我第一次听到获奖的消息时还在睡觉,一开始我甚至以为自己还在做梦。之后,这个感觉仍在持续,现在仍然感觉自己像是在梦中,同时也感受到这份荣誉所带来的责任感。对我个人来说,这是一个非常重大的责任,无论是在手上还是在背上都感受到了。
質問者 提问者今回世界的な評価を受けたということで、今後映画の脚本に対する向き合い方ですとか、考え方のようなものに変化は出てきそうな予感というものは自分の中にありますでしょうか?
由于这次获得了全球范围的认可,您是否感到自己对电影剧本的处理方式以及思考方式等方面可能会发生变化的预感呢?
坂元最近、映画の脚本を書くようになりまして、ほぼ2本目のようなものなんですが、まだやはり監督のお力を借りながら、プロデューサーのお力を借りながら、ゆっくりと進んでいるところですから、やはり今回含めて周りの人のお力によるものだと考えております。
最近开始写电影剧本,虽然算是第二部作品了,但还是需要导演和制片人的帮助,所以进展比较慢,我认为这次以及之前的作品都是得益于周围人的支持。
質問者 提问者先ほど一報を聞いた時に寝ていらっしゃったということですが、どなたからどのような手段、どういう状況で一報が入ったか教えてください。
听说您在刚才接到通报时正在休息,能否告诉我是谁以及通过什么方式,在什么情况下向您通报的呢?
坂元朝方というか、深夜4時頃だったものですから、寝ておりました。着信はあったようなのですが、気付かずにそのまま寝ていまして、そのうちに、またそのニュースをご覧になった方からショートメールをいただいて、それで初めて音が鳴ったんですね。その音で気付いて、見たところ、プロデューサーや監督から、受賞しましたというお話を聞きまして、何と言いますか私はご覧のようにあまり感情の起伏がないものですから、「うれしい」とか「やったー」という気持ちよりは、何か「ズシン」という思いが訪れて、水を一杯飲みました。それが最初の行動でしたね。
与其说是什么情况嘛,其实大概是凌晨4点左右,我正在睡觉。虽然有来电,但我没有注意到,继续睡了下去。后来,我收到了一条短信,是从另一个看到那则新闻的人那里发来的。这才是我第一次听到声音。我被那声音吵醒后,看到是制片人和导演给我发来的消息,说我获奖了。我要说,我并不像你们看到的那样情绪起伏很大,不会像“开心”或者“耶!”那样的心情,而是有一种“咚”的感觉涌上心头,我喝了一杯水。这是我最开始的反应。
質問者 提问者 以前、完成披露試写会の舞台挨拶の際に、この脚本は子供の頃の記憶・経験を思い出しながら書いたとおっしゃっていました。また、受賞の後に是枝監督が紹介されたコメントの中では、たった一人の孤独な人のために書いたとおっしゃっていました。差し支えない範囲で、この作品の元になったという経験がどのようなものだったのか、また、たった一人の孤独な人という、その人に伝えたい言葉が今ありましたら教えてください。
在之前的披露试写会的舞台致辞中,您曾提到这个剧本是在回忆童年的记忆和经历的同时写成的。而在获奖后,导演是枝先生在介绍中说,这是为了一个孤独的人而写的。如果不介意的话,请告诉我们一下,这个作品的灵感来源是什么样的经历,以及如果有一句话想要传达给那个孤独的人,您现在会说什么呢?
坂元監督にお送りした、「たった一人の~」というコメントに関しては、慌てて書いたものでしたから、文章が下手だったんですが、きっとどこかにいるであろう孤独に過ごしている誰か、それは特別な誰かを指しているわけではなく、また多くの沢山の人に届けるという気持ちではなく、誰かこの映画を受け止めてくれる、そんな人がいると信じて、その人のことを頭の中で思い描きながら常に書いていました。
关于我给监督的那条“只有一个人”的评论,我匆忙写下的,所以文笔不太好,但我相信总会有那么一个人,他们或许在某个地方独自度过,这并不特指某个特殊的人,也不是为了让更多人看到,而是相信会有人接纳这部电影,所以我一直在脑海中想象着那个人,写下这些话 子供の頃に関しては、その時に話していた通りで、仲良かった友達のことや、何人かの僕が小学校時代から中学にかけて出会った友人や出来事、そんなことを思い返しながら書きました。 关于小时候,就像当时所说的那样,我写下了与我关系亲密的朋友们的事情,以及我在小学到中学期间遇到的一些朋友和事件,回想起了这些事情。
質問者 提问者感情の起伏があまりないと今おっしゃっていましたが、賞というのはもらうと嬉しいものでしょうか?
您刚才提到情感起伏不大,但是获得奖励会让人感到开心吗?
坂元周りの方から「おめでとう」と言われて初めてうれしくなります。 当别人从周围赞美你并说“恭喜”时,你才会感到开心 沢山の方から、まずは監督から、プロデューサーから「おめでとう」と、勿論チームの一人ですので、みんなでもらった「脚本賞」だと思っていますから、その時点で私が身内からお祝いされるのも不思議なことではありますが、沢山の人からその後も「おめでとう」という言葉をいただきました。それが、やはりうれしかったです。一番うれしかったのは、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督から「脚本賞受賞おめでとうございます」というメッセージが届きまして、タクシーの中にいたんですが、涙が出ました。うれしかったです。
从很多人那里,首先是导演,制片人,他们都对我说了"恭喜",当然作为团队的一员,我也认为这是大家一起得到的"剧本奖",所以在那个时刻,我被亲朋好友祝贺也是一件奇妙的事情,之后还收到了很多人的"恭喜"。这些话,确实让我很开心。最让我开心的是,导演约翰·卡梅隆·米切尔发来了一条消息,祝贺我获得"剧本奖",当时我正在出租车里,眼泪流了出来。真的很开心。
質問者 提问者是枝監督はカンヌで沢山もらっていらっしゃると思いますが、賞をもらうという気持ちはどのようなものでしょうか?
我认为是枝导演在戛纳电影节上收获了很多奖项,那获奖的心情是怎样的呢?
監督 监督勿論、うれしいです。華やかな場所が好きなわけでは勿論なく、僕も周りから感情があまり見えないと言われがちなんですが、内側では色々感情の起伏があるタイプなんですが(笑)、特に自分が褒められると、本当かな?と疑問が湧きますけれども、自分の映画に関わってくれた役者さんとかスタッフが褒められるのは、うれしいですね。今回は会場にいて、何かとても幸せな気持ちになりました。
无论如何,我很高兴。并不是说我喜欢热闹的地方,而且我也常常被人说我看不出太多情感,但其实我内心起伏多变(笑),特别是当别人夸奖我时,我会怀疑这是真的吗?但是,当别人夸奖参与我的电影的演员或工作人员时,我感到很高兴。这次在场的时候,我感到非常幸福
質問者 提问者坂元さんに質問です。受賞しそうだな、するんじゃないかなという予感はなかったんでしょうか?
我有一个问题要问坂元先生。您没有预感到自己可能会获奖吗?
坂元まったく考えてもいませんでした。カンヌに呼んでいただけたこと自体が私にとって何より嬉しいことでしたし、それ以上のことは考えていませんでした。勿論私も『怪物』のチームの一人として、作品を観てとても好きになれた作品でしたので、評価を受けると嬉しいなという気持ちでした。本音で、自分のことは全く考えておりませんでした。
我完全没有考虑过。被邀请参加戛纳电影节对我来说已经是最开心的事情了,我没有想过更多的事情。当然,作为《怪物》团队的一员,我非常喜欢这部作品,所以能得到评价让我感到高兴。说实话,我完全没有考虑过自己
質問者 提问者脚本のどんなところを評価されたと考えていますか?
您认为脚本的哪些方面受到了评价?
坂元勿論、審査される方が脚本を読んでくださっているわけではないので、出来上がった作品から脚本を評価していただいたと思うのですが、それは作品のすばらしさ、そして脚本に関しては、どうでしょう、自分ではなかなか評価しづらいんですが、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督は「人の命を救う映画になっている」とおっしゃってくださったので、もしそれが誰かの心にそうあるなら、こんなに嬉しいことはないなと思っています。
无论如何,我认为并不是有人审查了剧本后才评价了成品,而是从成品中评价了剧本的优秀之处。关于作品的精彩和剧本本身,我自己很难评价,但导演约翰·卡梅隆·米切尔先生说这是一部能够拯救人命的电影,如果这样的评价能触动某人的心灵,我觉得再开心不过了
質問者 提问者子供と親と教師という3つの視点が巧みに表現されていると思ったんですが、その辺はどういった意識で書かれたのかを教えてください。
我认为这本书巧妙地表达了孩子、父母和教师这三个视角,您能告诉我它是以什么样的意识来写的吗?
坂元3つの段階をふむのは、私が以前経験したことなのですが、車を運転しておりまして、赤信号で待っていました。その時前にトラックが停まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動きださなくて、しばらく待っても動かないものですから、私は前の車がよそ見しているのかなと思って「プップッ」とクラクションを鳴らしたんですね。そのトラックはそれでも動かなかった。
经历过三个阶段,这是我以前的经历,当时我正在开车,等待红灯。那时前面有一辆卡车停在那里,绿灯亮了,但是那辆卡车一直没有动,我等了一会儿也没有动,所以我以为前面的车在看其他东西,就按了一下喇叭。但是那辆卡车还是没有动
どうしたんだろうと思っていると、ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいらしたんです。そのトラックは車いすの方が渡り切るのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私にはそれが見えなかったんですね。それ以来、自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けておりまして、このように世の中には普段生活していて見えないことがあり、私たち、私たちと言っていいのか、まず私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気付くことはとても難しい。それをどうすれば加害者が、被害者に対してしていること、気付くこと、それができるだろうか、そのことを10年余り常に考え続けてきて、その一つの描き方として、この方法、この描き方を選びました。
我一直在想发生了什么事,终于开始动起来后,横过马路的是一个坐在轮椅上的人。那辆卡车等着轮椅上的人过完马路,但是我站在卡车后面看不见。从那以后,我一直后悔按响了喇叭,因为在日常生活中有些事情我们看不见,我们,或者说首先是我自己,对自己是受害者的事情非常敏感,但是很难意识到自己是加害者。我一直思考着如何让加害者意识到他们对受害者所做的事情,如何让他们意识到这一点,我已经考虑了十多年了,选择了这种方式来描述这个问题
質問者 提问者是枝監督に。坂元さんの脚本の優れているところ、どのように評価されているのかを教えてください。 对于是枝导演来说,能否告诉我坂元先生的剧本有哪些优点,以及它们受到了怎样的评价?
監督 监督
ぼく個人が、でいいですか?
说我个人的观点可以吗?
質問者 提问者
はい。 好的
監督 监督受賞後のカンヌの囲みで、坂元さんの脚本のどこが評価されたと思いますか?という記者の質問が出て、
在戛纳电影节获奖后的采访中,有记者问到坂元先生的剧本被评价的哪些方面?
審査員の人たちと話す機会があれば聞いてみたいなと思っていたのですが、ちょっと今回はそういう集まりがなくて、いきなり花火があがってお祭りになっちゃったものですから、ちゃんと聞けていないんですよ。それがちょっと残念なんですけれども、僕自身は最初にプロットをいただいた時から、一体何が起きているのかわからない、わからないのに読むのが止められない。どこまでいってもわからない。映画が半分過ぎても多分まだわからないということが、あぁこんな書き方があるんだなと、自分の中にはない物語の語り方でしたし、読み進めていくうちに、読んでいた自分が作品によって批評されていく、自分がその今の坂元さんのお話でいうと、クラクションを鳴らす側に否応なくなってしまうという、そのある種の居心地の悪さというんですかね、良い意味で。それが最後まで持続するということが、とても面白かったです。エンターテインメントとしても本当に面白かったんですね。それが僕は一番チャレンジしがいのある脚本だなと思ったところの一つです。沢山ありますけれども、それが一つですね。
如果有机会和评审们交谈,我本来想问问他们的想法,但这次没有这样的机会,突然间烟花绽放,就变成了一个庆典,所以没能好好询问。这有点遗憾,但从一开始收到剧本时,我就不知道到底发生了什么,不知道却停不下来地读下去。无论读到哪里,都不知道。即使电影已经过了一半,可能还是不知道,这种叙述方式在我内心中是全新的,随着阅读的进行,我发现自己被作品所批评,我不由自主地成为了现在坂元先生故事中按喇叭的那一方,这种不舒服的感觉,以一种好的方式存在着。这种感觉一直持续到最后,非常有趣。作为娱乐作品,真的非常有趣。这是我认为最具挑战性的剧本之一。还有很多,但这是其中之一
質問者 提问者坂元さんにお伺いします。先ほど映画の脚本は2本目とおっしゃっていましたが、そもそものお話として映画の仕事をやりたいということが、脚本を書かれるルートにあったという風に伺っております。例えば、フジテレビヤングシナリオ大賞に応募する前にディレクターズカンパニーの方に長い脚本を出して、それと同時に短くしたものをフジテレビに送ったらフジテレビの方で通ってしまった。でも、どうしても映画をやりたい、ということで、ご自身で監督作をやったこともある。そんな過去がありながら、近年だとドラマというものは結論が出ていないから面白い、映画は2時間で結論が出るから面白くないというような発言をされていたのもちょっと聞いたことがあります。もともとやりたかった映画の世界で、脚本という道で賞をとったということの喜びについて、どう思われていますか?
我想请教坂元先生。刚才您提到您已经写了第二部电影剧本,但我想了解一下,最初您是怎么进入电影行业并开始写剧本的。例如,在参加富士电视台青年编剧大奖之前,您曾向导演公司提交了一部长篇剧本,并同时向富士电视台提交了一份缩短版,结果富士电视台通过了。但是,由于您非常想做电影,所以也曾自己执导过作品。我听说您曾经说过,近年来,电视剧之所以有趣,是因为没有结论,而电影只需要两个小时就能有结论,所以不那么有趣。作为一名在电影界本来就想做电影的人,您对通过剧本这条道路获得奖项的喜悦有何感想?
坂元映画がつまらないと思ったことは全くありませんし、一人の映画ファンとして映画が大好きです。自分が高校生の頃に多くのこの世界にいる人達がそうであるように、映画をたくさん浴びるように見て、この映画の世界で映画をつくる仕事をしてみたい、と10代から20代前半のときはずっと思っていました。
我从来没有觉得电影无聊,作为一个电影迷,我非常喜欢电影。就像许多人在我还是高中生的时候一样,我一直希望能够像他们一样沉浸在电影的世界中,从事电影制作的工作。这个想法一直伴随着我从十几岁到二十几岁的年纪
1本映画をつくったのですが、その時に全く自分が監督という仕事に向いていないということが分かりまして、それ以来辞めようと思って25年くらいですかね、もう少しで30年くらい経ちます。30年も経つともしかしたら今ならできるんじゃないかと思ったりはしていたんですが、今回の是枝さんの仕事をみて、やっぱり自分にはこれはできない、無理だとはっきり分かりましたので、本当に映画監督ってすごい仕事だなと思いました。すみません、質問の答えになってましたか?
我制作了这部电影,当时意识到自己完全不适合导演这个工作,从那时起我就考虑辞职了,大概已经有25年了,差不多快30年了。过了30年,我有时候也会想,也许现在我能做到了吧,但是看了是枝先生的工作之后,我明确地意识到这对我来说是不可能的,真的是太难了,我觉得电影导演真是一份了不起的工作。对不起,我的回答是否符合您的问题?
質問者 提问者映画監督が凄いということは分かりましたけれども、脚本でカンヌの頂点に立った、もともとやりたかった映画で賞を取れたということの達成感、そういうものはあるんじゃないですか?
我明白电影导演很厉害,但是在剧本上能够在戛纳电影节上获奖,实现了自己一直想做的电影,难道没有一种成就感吗?
坂元そうですね。私30年前にカンヌ映画祭に遊びに、観光で行ったことがありまして。それは仕事でもなんでもなく、ユーロスペースという会社の堀越謙三さんや、亡くなられた吉武美知子さんにパスを取っていただきまして、吉武さんに案内されながらカンヌで映画をたくさん観ました。その時に、いつかここで自分の作品を上映できたらどんなに幸せだろうか、そんなことを毎晩考えていました。遠巻きにレッドカーペットを見ながら。それから30年経って、賞を獲ったということも勿論嬉しかったのですが、上映できたこと、それが30年来の願いで、願いというか忘れていた願いが蘇ってきて、ああここにあったんだという気持ちになりました。
嗯,是的。我30年前去过戛纳电影节玩,当时是作为旅游目的去的。那并不是工作,而是得到了Eurospace公司的堀越謙三先生和已故的吉武美知子女士的通行证,她带着我在戛纳观看了很多电影。那时候,我每天晚上都在想,如果有一天我能在这里展示自己的作品,那该有多幸福啊。就这样远远地看着红地毯。然后30年过去了,当然获得奖项也让我非常高兴,但更让我高兴的是能够展示我的作品,这是我30年来的愿望,或者说是我已经忘记的愿望重新浮现了,感觉啊,啊原来它一直在这里
質問者 提问者ドラマの世界でもなかなか難しい時期もあったかと思うんですよね。テレビから離れた時期もあった。ゲームの脚本を書かれたこともあった。テレビドラマに向き合うってこと、脚本家っていう職業として向き合うことが難しい時期もあったと、著書の中でも書かれていますけれども、今ご自身の脚本家の人生を振り返ってみて、やっぱり幸せの頂点というところなんでしょうか?
我觉得在电视剧的世界里,也有过一些困难的时期吧。也有过离开电视的时候。还曾经写过游戏剧本。在面对电视剧这个职业作为编剧时,也有过困难的时期,这也在您的著作中有所提及。但是现在回顾您自己作为编剧的人生,您认为最高点就是幸福吗?
坂元全く頂点とは思っておりません。なかなか日々とにかく、(記者の)皆さんも同じようにパソコンの白い紙に向かって書かれていらっしゃるかと思いますが、私も日々ただただ締め切りに追われ、文字を埋めていくということをコツコツ毎日1日中やるしか、それでしか、ものが出来上がらないので、そこになかなか達成感というものが生まれるということはなく、ただただ文字を書き貫いていく、これが自分の人生だと、振り返れば思っていますので、そこに達成感というものが、この仕事をしているとなかなかそう簡単に手に入るものじゃないのではないかなと。ただ、お客様から観てました、時に救われましたという言葉をいただけると、ちょっとそのコツコツやっていた日々を思うと、無駄ではなかったなとそんなことを思うぐらいです。
我并不认为自己是顶尖的。每天都在忙碌,我想记者们也是一样,坐在电脑前面面对着白纸写作。我也是每天被截稿压迫着,只能一天到晚埋头填字,只有这样才能完成工作。所以,我并没有什么成就感,只是一直写字,这就是我的人生。回过头来看,我觉得在这个工作中很难获得成就感。但是,当客户告诉我他们从我的作品中得到了救赎时,我会稍微想一下那些辛勤努力的日子并不是徒劳无功
質問者 提问者子供のセクシャルアイデンティティについて、かなり踏み込んだ内容の脚本と作品になっていることが、クィア・パルム賞を受賞されたことになっていると思うんですが、このテーマについては、お二人はかなり最初の段階から形を変えないまま、この企画をもんで映画化されたということになるのでしょうか?それとも色々話し合いで脚本をつくったというお話をカンヌの記者会見でされていましたが、そこのテーマについては紆余曲折があって最終的な形になったんでしょうか。
我认为这部作品在探讨儿童的性别认同方面非常深入,因此获得了奎尔·帕姆奖。关于这个主题,您们两位是从最初的阶段开始就没有改变形式,直接将这个计划拍成电影呢?还是在戛纳的记者招待会上提到的,您们通过讨论最终完成了剧本,经历了一些曲折才得到最终的形式呢?
坂元まず私からお話しますと、どんなお話でもどんなテーマでもそうなんですが、まずは取材、勉強、自分自身のこれまでの経験、それを踏まえながらとにかく自分の中にある“まずこうだろう”を捨てて、まず知ること、自分自身を疑うこと、それを考えながら取材・勉強を続けてきました。ある段階で監督含め監修の方に入っていただき、多くの指摘をいただきながら修正していきました。その具体的な過程に関しては監督の方が詳しいかと思うんですが、ただ自分たちが分かった気にならない、それはいつもそうなんですが、自分たちは何も知らないんだということを、常にふまえながら勉強していったという感じですね。そして、脚本に修正をいれ、大きく変えていきました。
首先,让我来说一下,不管是什么样的故事,什么样的主题,首先要进行采访,学习,结合自己以往的经验,放下自己内心的“首先应该这样”的想法,先去了解事实,怀疑自己,同时继续进行采访和学习。在某个阶段,导演和监修人员参与进来,给予了许多指导意见,我们根据这些意见进行了修改。关于具体的过程,我认为导演会更详细,但我们始终保持着不自以为是的态度,我们一直在学习的过程中意识到自己什么都不知道。然后,我们对剧本进行了修正,并进行了大幅度的改变
監督 监督そうですね。プロットをいただいた段階で、これはちゃんと勉強しないとまずいなと思って。プロデューサーと相談しながら、協力していただける団体の方たちに連絡を取って、最終的には、LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方に、本を読んでいただいたり、演出上どういう風な注意点があるかということをお伺いしながら、描写については現場にインティマシー・コーディネーターの方にも入っていただいて撮影をするという様な形をとりました。
嗯,是的。在收到剧情之后,我意识到如果不好好学习这个问题就不妙了。我与制片人商量后,联系了一些愿意合作的团体,最终请了支持LGBTQ儿童的组织的人来阅读书籍,并询问了他们在导演方面有哪些注意事项,同时请了现场的亲密协调员参与拍摄
もう少し踏み込んでお話した方がいいですか?
需要再深入讨论一下吗?
僕もなかなかどこまで踏み込んだ描写をするのか、彼らがどういう、要するに自認をしているのかというあたりが、演出する上でポイントになるなと思ったので。団体の方たちと話していた時に、あの年齢の子たちが、例えば自分がゲイであるとか、トランスジェンダーであるという自認、もしくは他認をするというような認識をするということは、まだ早い段階の子供たちだ、ということで、そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないかというアドバイスをいただいて、極力というか、そういう描写を脚本から少しカットした、ということはあります。
我觉得在表演中,关键是要考虑到他们对自己的认同以及他们愿意展示多深入的描写。当我与团队交流时,他们建议说对于那些年纪较小的孩子来说,例如他们自己是同性恋或者是跨性别者,或者是对他人的认同,这样的认知可能还为时过早。因此,他们建议尽量避免特定的描写,我也在剧本中稍微删减了这些内容
そのうえでーー、これはもう映画を観ていただいたうえでの話になると思うんですけれど、、、その名付けようのない、自分の中に芽生えた、得体のしれないもの、あの子たちにとっては。それを彼らは「怪物」と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう、そのことを描きたい。僕が考えたのは、そのように自分の中に芽生えてしまった、自分でも理解できない自分の感情とか存在を、「怪物」だと思ってしまうという感情とか行為というのは、色んな所で色んな状況に置かれた子供たちの中で起きているだろうなと思っていて。多分さきほど坂元さんが「孤独な人」といった人達だと僕も思っています。その子たちを、孤独な状況に追いやってしまっている私たちっていうものを、要するに彼らから見れば私たちの方が「怪物」であるという、この私たちが彼らに見返されるというスタンスを、どういう風に映画の中に描いていくかということまでやるべきだということを、その相談させていただいた団体の方と話し合ったうえで僕が学んだことでした。一番学んだのはそこでした。そこを見失わないようにしようと思いました。この辺で大丈夫ですか?
在那之前——我认为这是在您观看电影后的谈话——那种无法命名的、在自己内心中萌发的、难以捉摸的东西,对于那些孩子们来说。他们将其称为“怪物”,或者是被周围的压抑所迫使称之为“怪物”,我想要描绘的就是这一点。我想到的是,在自己内心中萌发的、自己也无法理解的情感或存在,被认为是“怪物”的感情或行为,在许多不同的地方和情况下发生在孩子们身上。也许正如坂元先生所说的“孤独的人”,我也这样认为。我们将这些孩子们推向孤独的境地,从他们的角度来看,我们才是“怪物”,这种立场是我们应该在电影中描绘出来的,这是我在与咨询团体讨论后学到的。我最大的收获就是这一点。我希望不要失去这一点。这样可以吗?
監督 监督すみません、もう一点追加を。一部でその子供たちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれと、言っているというようなことがささやかれたり、発言が飛び交ったりしているようなことを耳にしているんですけれども、観た方の感想で、なるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思うんですね。そういう感想をいくつも目にしましたけれども。決して、彼らが重ねた葛藤をネタとして扱ったつもりはありません。あの、構成上、おそらくむしろ観た方が自分が当事者としてあの子供たちと向き合うためには、これも坂元さんの脚本の技術だと思いますけれども、できるだけ振り回された方が、見終わったときに自分がどこに着地するのかということが最初に分からないほうが、いいのではないかなという風に思っておりますので、そこは誤解のないようにという風に、僕自身は宣伝のスタッフにも伝えております。ごめんなさい、余計な話かもしれませんが以上です。
对不起,我有一个小小的补充。我听说有人在暗中议论着不要透露那些孩子们所面临的困扰,因为那会泄露剧情,也听到了一些言论飞扬的声音。但是,根据观众的感受来看,我认为最好是不要带有先入为主的观念去看。我看到了很多这样的感受。绝对不是要把他们所经历的困扰当作话题来对待。在剧情构思上,也许更多是为了让观众在面对这些孩子时,能够更好地与他们共鸣。这也是坂元先生剧本的技巧所在。我认为,被剧情牵引着,不知道自己最终会走向何方,这样的体验可能更好。所以,请不要误解,我已经向宣传团队传达了这一点。对不起,可能是多余的话,就说到这里吧
質問者 提问者坂元さんに伺いたいんですけども、先ほど、今回の作品を通して監督をするのは自分には無理だというようなことを感じたということをおしゃっていましたけれども、今回自分が書いた脚本がこういう形で映像化、作品になったのを観て、自分の想像以上のものができたのかとか、どういうようなことを感じたのかというところを教えていただけますでしょうか。
我想向坂元先生请教一下,刚才他提到了他觉得自己无法担任这部作品的导演,我想知道他对我这次写的剧本以这种形式被拍成电影、成为作品后的感受,是否超出了他的想象,以及他有什么样的感受。能请您告诉我吗?
坂元まず、主演する二人の子供たちを観ているうちに、自分の子供時代のことをどんどん、どんどん思い出しました。自分の名前も忘れて顔も忘れていたはずの友人の顔が、その時急に思い出すなどして、それはもう新鮮な驚きでした。 首先,当我看着两个主演的孩子们时,我不断地回忆起自己的童年。我甚至突然想起了曾经忘记了名字和面孔的朋友,这真是令人惊讶的新鲜感 映画全体としては、本当に本づくりの段階から監督はじめ皆さんに引っ張っていただいて、多くの知己をいただきながら書きあがったものが、編集の段階でもまたよりどんどん変わっていき、というか良くなっていき、映画が成長していく、作りながら、私が書いた設計図にしかすぎない脚本が、どんどん人々が息づいていく、作品になっていくその様子に驚きましたね。一人の観客として出会えたので、それが何よりかなと思っています。
整部电影来说,从真正开始制作的阶段起,导演和大家一起努力,得到了许多知己的帮助,最终完成了剧本。在剪辑的过程中,电影不断地变化,变得越来越好,不断成长。在创作的过程中,我写的剧本只是一张设计图,但它逐渐被人们赋予了生命,变成了一个作品,这让我感到非常惊讶。能够以一个观众的身份与之相遇,这对我来说是最重要的
質問者 提问者実質、今回が映画の脚本としては2本目という風におっしゃっていましたけども、それがこれだけ世界的に大きな賞をもらって、このことがご自身の今後に影響を与えたりするようなことがあると思われますか?
实际上,您曾经说过这是您的第二部电影剧本,但是这部电影却获得了如此重要的国际奖项,您认为这会对您的未来产生什么影响吗?
坂元もう少し早く映画を始めていれば変わったのかもしれないですけど、私もう結構なベテランでカスカスなんですね。絞っても何もでない状態なので、まあ日々いろんなことを学び周りの方に助けていただきながら、書いてるんですが、正直自分がこれから何を書けるのか全く見えてはおりません。振り返った時に『怪物』が自分をもうひとつ成長させてくれたものだったなって10年後に、もしこんなこと言いながらバリバリ書いていたとしたら、この時だったなと思うのかもしれませんが、今はもうカスカスです。(笑)
如果电影能早点开始,也许会有所不同,但我已经是个老手了,有点老态龙钟的。就算再努力也一无所获,所以我每天在学习各种事情的同时,也在向周围的人寻求帮助,写作。但说实话,我完全看不到自己接下来能写什么。十年后回首,我可能会觉得《怪物》让我再次成长了一些,如果我在这个时候说着这样的话,努力地写作着,也许会觉得那就是现在吧。但现在我已经有点老态龙钟了。(笑)
質問者 提问者あともう一つだけ確認で。今内容に関してカスカスだということだと思うんですけど、例えばこれから書くもので映画になるのかドラマになるのか、それとも他のものになりうるのか、そこら辺については何かありますか。
还有最后一个问题要确认一下。我觉得现在关于内容方面已经很清楚了,但是比如说接下来要写的东西会变成电影还是电视剧,或者可能会变成其他的东西,对于这方面有什么想法吗?
坂元当面、映画を書くことは決まっています。ドラマは決まっていません。
现在我已经决定要写电影剧本了。至于电视剧,还没有确定
質問者 提问者先ほどの質問と重なることがあると思うんですが、これまでたくさんのお仕事をされてこられて、トレンディドラマもご自身を鍛えてくれたとおっしゃっておられて。そのあとも様々な社会的テーマと言われるようなところにも次々と取り組んでこられて、作風の幅を広げてこられたという印象を持っているんですけども、この『怪物』はご自身にとってこれまでの書かれた作品の中での位置付けと言いますか、これまでの取り組みの中から『怪物』のプロットに繋がるものがあったのか、そういったことをお伺いしたいです。
我觉得这个问题与之前的问题有些重叠,您之前已经做了很多工作,也说过流行剧锻炼了您自己。之后,您也接连着涉足了各种被称为社会主题的领域,拓宽了自己的创作风格,这是我对您的印象。那么,《怪物》在您之前的作品中扮演着什么样的角色呢?在您之前的探索中,是否有与《怪物》情节相关的元素?我想请教您这些问题
坂元2010年に「Mother」というドラマをつくりまして、脚本を書きまして、2011年に「それでも、生きてゆく」というドラマの脚本を書きました。その時からずっと、先ほどもお話しましたが、抱えていた問題が自分の中にずっとあって、それがここでこんなお話をすることが相応しいのかどうか分からないのですが、加害者というのをどのように描けばいいのか、それが私にとって12年間の長い長い課題というか、自分が考えていきたいテーマだったんですね。先ほどもちょっと言いましたが、加害者がどのようにすれば被害者の存在に気づくことができるか。私たちは被害ということに対して自分自身よく考えることがあるんですが、自分自身の加害という行為に関して考えることは難しい、気づくことは難しい。それをどうすればいいんだろうかということは、私の長年のテーマだったんですが、先ほどのクラクションの話もそうなんですが、『怪物』で辿ったのは加害者が被害者の存在に気づいていく、その道のりを自分なりに今現在書ける最も適したもの、現状書けるものがコレだったという。そういうことを、“社会的”という話も出たんですが、それにまつわることをずっと考えてきたということなんですよね。ですから、これで一つ自分なりの道筋というものになっているといいなと思うんですが、それが、答えが出るかは分からないのですが、現状コレです。
2010年我制作了一部名为《Mother》的电视剧,并担任编剧,2011年我又写了《即使如此,依然活着》的剧本。从那时起,一直以来,我一直有一个问题困扰着我,这也是我在这里谈论的内容是否合适的问题。我不知道如何刻画加害者,这是我长达12年的一个长期课题,也是我想要思考的主题。刚才我也提到过,加害者如何意识到受害者的存在。对于受害我们常常会好好思考,但对于自己的加害行为却很难思考,很难意识到。我一直在思考如何解决这个问题,就像刚才提到的汽车喇叭的故事一样,《怪物》所经历的就是加害者意识到受害者的存在,这是我目前能够写出最适合的、能够表达现状的故事。关于这个问题,我一直在思考与之相关的社会问题。因此,我希望这能成为我自己的一条思路,但我不知道是否能找到答案,目前只能是这样
質問者 提问者ありがとうございます。関連して監督にもお伺いしたいのですが、是枝監督はこれまで坂元さんの作品を観ていて、ご自身の関心とやはり同じものがあって同じ時代を生きていて、そういったこともあって、もしご自身が脚本お願いするなら坂元さんにと前々から言われていたと。今の“社会性”といった、坂元さんがずっと取り組まれてきた、そのことに関しては監督としては今回の作品を含めても、テーマといったところと、今の坂元さんの発言に関して監督からひと言頂ければと思うんですが。
非常感谢。我想询问一下导演相关的事情,是枝导演之前看过坂元先生的作品,他对坂元先生的作品非常感兴趣,觉得自己和坂元先生有着相同的关注点,生活在同一个时代,因此一直对坂元先生说,如果要找编剧的话就找坂元先生。关于现在的"社会性",坂元先生一直在努力探索的这个主题,导演希望能在这次的作品中包含进去,并且希望能从导演那里听到一句话,关于坂元先生现在的言论
監督 监督難しいですね。世代的には僕の方がちょっと上なんですけれども、僕も初めて書いた脚本はディレクターズカンパニーに持って行っているんですよ。僕は89年だったか90年だったか。相米慎二に憧れて。出発点から結構似てるんですよね。90年代、僕はフジテレビの視聴率1%未満の深夜ドキュメンタリーをやりながら、坂元さんのドラマを見る、心の余裕のない20代〜30代を過ごしたんですけれども。先ほどの「Mother」や「それでも、生きてゆく」―「それでも、生きてゆく」は僕の中では圧倒的な打ちのめされ方をしたドラマなんですけれど、自分が関心を持っているモチーフをこんな形で連続ドラマで、しかもラブストーリーで真摯に取り組んで、ドラマを通して何ができるのかを模索している、作り手がいる。本当に、演者と演出と脚本が信じられないくらい高いレベルで成立しているなと。そこから目が離せなくなったっていうのが、正直なところで。“社会派”と言われると坂元さんも「ん?」と思うと思うし、僕も“社会派”っていわれるくくり方であまりピンとこないっていうのが正直なところなんです。モチーフとして選んでいることと、その先で作り手が何を考えて何を描こうとしているのかと、結果的にどんなものになったのかというのは、必ずしもイコールでつながらないもので。特にドラマでも映画でもそうですが、集団でつくってるし、作り手が描こうと思っていないものが描かれちゃったりするので、あまりそれを決めたくないなという気持ちはあります。ただ、同じ時代に生きて同じ空気を吸ってきた。でも吐き方が違ってきた。吐き方は違っていた脚本家と監督が、今回は息を合わせてつくったという感じです。
嗯,确实挺难的。虽然从年龄上来说,我比你大一点,但我也是第一次写剧本时拿给导演公司看的。我记得是89年还是90年。我当时非常崇拜相米慎二。从起点来看,我们有些相似。在90年代,我一边做着富士电视台收视率不到1%的深夜纪录片,一边看着坂元先生的剧集,度过了一段没有心灵寄托的20多岁到30多岁。刚才提到的《Mother》和《即使如此,也要活下去》——《即使如此,也要活下去》在我心中是一部令人震撼的剧集,我在连续剧中以这样的形式,而且还是一部爱情故事,真诚地探索着自己感兴趣的主题,试图通过剧集找到自己能做些什么,真的,演员、导演和编剧的水平达到了令人难以置信的高度。从那时起,我就无法将目光从剧集上移开,这是我真实的感受。如果说坂元先生被称为“社会派”,我想他也会有些疑惑,而我对于被称为“社会派”也不太能理解,这是我真实的感受。选择作为主题的事情,以及制作人在此基础上考虑了什么,想要描绘什么,最终成为了什么样的作品,这些并不一定是相等的。特别是在剧集或电影中,因为是集体创作,所以有时会出现制作人没有想要表达的东西被描绘出来的情况,所以我不太想去确定这一点。但是,我们生活在同一个时代,呼吸着同样的空气。只是吐出的方式不同了。这次,编剧和导演以一种协调的方式合作创作
質問者 提问者ちょっと軽い質問してもいいですか。すみません。 可以问个简单的问题吗?对不起 せっかくカンヌに行かれたので、坂元さんにはレッドカーペットを歩いた時とか、現地で過ごした感想を聞きたいのと、是枝監督には、授賞式後、役所広司さんと2ショットで写真を撮られたりされていましたが、現地で経験したことなど聞ければというのもあり。さらに、1つちょっと気になっていたのが、レッドカーペットでかかっていた曲が『菊次郎の夏』の「Summer」だったのが凄く気になっていて、もし現地で間違えちゃったんだと言われたとかあったら、と気になっていたんですけど…とりあえず、そのカンヌの思い出話、楽しかった思い出話などを聞けたらなと思います。
既然你去了戛纳,我很想听听坂元先生走红毯时的感受,以及在当地的体验。还有,我听说是枝导演在颁奖典礼后和役所广司先生合影了,我也想知道在当地的一些经历。另外,有一件事情我一直很在意,就是在红毯上播放的那首歌是《菊次郎的夏》的"Summer",这让我非常好奇。如果有人告诉你在当地搞错了的话,我也很想知道。总之,我希望能听到一些关于戛纳的回忆和有趣的故事
坂元楽しかった思い出ではないんですが、私3日間滞在していたんですが、お腹を壊してしまいまして、 虽然不是令人愉快的回忆,但我在那里逗留了三天,结果患上了肠胃不适 3日の内2日寝込んでおりました。ただ、ギャガのスタッフの方が優しく、クッキーとウエハースを持ってきてくださって、そのウエハースを食べたらとても美味しくて、カンヌに来て良かったなと思いました。多分、一生あれより美味しいお菓子を食べることはないような気がします。とっても美味しかったです。帰るときでしたね、治ったのは。
我在三天内有两天都病倒了。不过,幸好有个嘎嘎的工作人员非常友善,给我带来了饼干和威化饼,吃了那个威化饼后觉得非常好吃,觉得来干啊真是太好了。也许一辈子都不会再吃到比那个更好吃的零食了吧。真的是太好吃了。正好在回去的时候,我就好了
質問者 提问者じゃあ全然、南仏のお料理みたいなのは… 那么,完全就像南法的料理一样..
坂元料理は機内食は美味しくいただきました。でもほんとに、どんな料理を食べるよりどんな美味しいものを食べるより、スタッフが持ってきてくださったウエハースが最高でした。
我在飞机上享用了美味的机内餐。但是说实话,比起吃什么料理都更美味的是工作人员给我送来的华夫饼干,简直是太棒了
質問者 提问者公式上映のときは大丈夫だったのですか?
正式上映的时候一切都好吗?
坂元あの日は大丈夫でした。あの次の日の午前中に倒れてしまったんです。いい思い出です、これは。
那天没事。第二天上午我突然倒下了。这是个美好的回忆
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
監督 监督レッドカーペットの音楽はですね、事前に何にしますかと聞かれました。それで坂本龍一さんの今回の『怪物』のテーマ曲をお願いします、という風に伝えました。かかったら久石譲さんだったんですよ。(苦笑)これはなんでだか分からない。何かを間違ったんだと思うんですけど。
在红地毯音乐的选择上,有人事先问我要播放什么。我告诉他们请播放坂本龙一先生这次的《怪物》主题曲。结果播放的却是久石让先生的曲子。(苦笑)我不知道为什么会这样。可能是我搞错了什么
質問者 提问者やっぱりそうですよね。絶対、坂本龍一さんの曲じゃないの?!と凄く思っていて。
果然是这样啊。肯定是坂本龙一先生的歌曲吧?!我真的非常这么认为
監督 监督当然そうだと思って歩き始めたんですけど、違いましたね。(苦笑)
当然我以为是这样,开始走了起来,但是结果却不一样呢。(苦笑)
上映終わって出てきてもまたかけてきたので、大好きな曲ではあるんですが・・・なぜあれがかかったのかは分かりません。授賞式でレッドカーペットを歩いていても、「タケシ!」と声をかけられましたんで。もしかすると、どっかで何かこう違っていろんなことが伝わってるかもしれないです。(苦笑)
电影放映结束后,我出来的时候又开始播放了,虽然是我非常喜欢的一首歌,但我不知道为什么会播放那首歌。在颁奖典礼上走红毯的时候,还有人喊着我的名字:“Takeishi!”也许在某个地方有些事情发生了变化,传达了各种不同的信息。(苦笑)
質問者 提问者そのあとの北野監督のレッドカーペットでも「Summer」が流れていたので・・・
在北野导演的红地毯之后,也播放了《夏天》这首歌曲,所以..
監督 监督そうですか。そっちでもしかすると『怪物』が流れたんじゃないかと思ってたんですけど。(笑)
是吗?我在那边也有点想着会不会有"怪物"出现呢。(笑)
質問者 提问者だから、日本の作品は全部久石譲なのかなと思っていたんですが。
所以,我一直以为所有的日本作品都是由久石让创作的
監督 监督だとすると、だいぶ雑ですよね。(笑)まあいい曲でしたけどね。いい曲だったんですけど、ちょっと 如果是这样的话,那就有点杂乱了呢。(笑)
嗯,虽然是一首不错的歌曲。虽然是一首好歌,但有点..
せめて坂本さんにして欲しかったな、というのがレッドカーペットを歩いた皆の共通の意見でしたね。
大家都有一个共同的意见,希望至少是坂本先生走上红毯
質問者 提问者やっぱそうですよね。凄い気になってました。
没错,是这样的呢。我一直很在意呢
監督 监督すみません。伝えておきます。役所さんとの舞台裏については、、、まず、受賞の瞬間に役所さんの名前が呼ばれたときに、僕と安藤サクラさんが一番叫んで歓声をあげていると思います。そのぐらい格好よくてというかですね、本当に嬉しかったです。役所さんがあの場所で評価をされるということが。
不好意思。我会转达的。关于与役所先生的幕后事情,首先,在颁奖的那一刻,当役所先生的名字被宣布时,我和安藤樱小姐应该是最大声地欢呼了起来。这是因为役所先生真的很帅气,或者说,我们真的非常高兴。因为役所先生在那个场合得到了认可
裏で記念写真を撮って、役所さんも恥ずかしがり屋さんなので、あまり受賞した喜びをそんなに言葉にするということはなくてですね、裏で話したのは、今後の日本映画をどうしていくか、みたいな。日本映画界をどうよくしていくか、みたいなことをまた戻ったら話し合いましょうね、という実務的な話をしていました。ずっと応援していただいているので、僕らがやっている活動も含めて。そのお礼を伝えて、日本に戻ったらまた話しましょうっていう、そういう話です。
在内部拍摄纪念照片时,由于役所先生是个害羞的人,所以并没有过多地用言辞表达获奖的喜悦。我们在内部讨论的是关于未来日本电影的发展方向之类的话题。我们将来可以再次讨论如何改善日本电影界之类的实际问题,因为您一直以来都给予了我们很多支持,包括我们所从事的活动。这是一种表达感谢之意,并表示在回到日本后再次交流的谈话
質問者 提问者ありがとうございます。
非常感谢您
質問者 提问者坂元さんにお伺いしたいんですけど。今回、脚本賞を受賞して、今後の作品とかもより一層注目度が高まるかなと思うんですけど、その辺、プレッシャーや不安に感じることはありますか?
我想向坂元先生请教一下。这次获得了剧本奖,我觉得今后的作品会更受关注,您是否感到了更大的压力和不安呢?
坂元プレッシャーのない仕事をしたことがなくて。しかもあまり結果も出たことが、私はそんなにないものですから、いつも怒られながら、謝りながら仕事をしていて。それはビジネス的な面で、とても脆弱な脚本家なものですから。いつも細々と、細々というか、細々というと自虐が過ぎますが、皆さんにお仕事をいただきながらやっているものですから、それは今後もプロデューサー次第だと思うんですけど・・・これでそのプロデューサーたちがおめでとうって言ってくれたり、ご飯食べましょうって言ってくれたり・・・なんの質問でしたっけ?嬉しかったです。
我从来没有做过没有压力的工作。而且我也没有取得太多成果,所以我总是在被责备和道歉的同时工作。这在商业上,对于一个非常脆弱的剧作家来说是很常见的。我总是默默地,或者说是自嘲地做着这些工作,同时也在接受大家的委托。这将取决于未来的制片人,但是如果那些制片人能够对我说声祝贺,或者邀请我一起吃饭...我忘记了你的问题是什么?我很高兴
質問者 提问者世に出していく上で…
在我们走向世界的道路上..
坂元本当にもうカスカスなんです。ただただ、仕事をしましょうって言ってくださることが嬉しくて。それにホイホイついて行ってしまっている自分がお調子者で情けなくて。本当に書けない、ゴメンゴメン、と言いながら謝りながら、周りの方が大丈夫書けるよって言ってくださって、支えられながらやっているので。すみません、愚痴をこぼして。今後、自分が変わっていくとは現状は思えないです。ただただもう、脚本を書くのは地味に毎日朝、仕事机に座って、夜寝るまでずっとパソコンの前に座って。私の万歩計、日々12歩なんですね。トイレに3回行ったくらいなんですけど。大晦日、元旦以外はずっとそんなことをしていて。愚痴で申し訳ないですけれど、楽しい仕事でもないですし、ただただ真面目に文字を書くことでしか何も得られないものですから。こうやってとても華やかな場に立たせていただきましたが、公開が終わったらまた私締め切りに追われて、コツコツとパソコンの前に向かうしかないですので。とても楽しい気持ちにはなれないです。
真的是一团糟。只是听到你说要工作,我就感到很高兴。而且我自己也是个爱跟着去的人,真是可笑又可悲。我真的写不出来,对不起,对不起,一边道歉一边说着,周围的人却说没关系,你可以写得好,他们一直在支持我。对不起,我在发牢骚。我觉得我未来不会有什么改??
这两年,是枝裕和导演非常高产。继去年凭借《掮客》入围戛纳主竞赛单元,并为宋康昊摘得戛纳影帝后,这次他又带着在本土创作的影片《怪物》重返戛纳。
目前,这部新作在银幕场刊上的评分为2.3,暂列第二。这个成绩对于是枝裕和这样已经拿到过金棕榈的热门导演来说,确实算不上太过理想。相较于《小偷家族》场刊3.2的高分,更是有着明显的差距。
影片《怪物》的编剧是中国观众非常熟悉的坂元裕二,他的代表作有《东京爱情故事》《四重奏》等。而此次《怪物》的故事则通过一桩悬疑事件切入:
平静的湖畔小镇,安藤樱饰演的单亲妈妈早织、永山瑛太饰演的老师保利,以及天真烂漫的孩子们原本过着安稳的生活,却偶然因为一次校园冲突,渐渐酵酿成轩然大波,引起社会与媒体的关注。当整个事态越来越严重,竟在一个暴风雨的清晨,两个男孩双双失去了踪影……
这次,是枝裕和再度引入最擅长的儿童视角,只是故事结构采取的三段式,从三个不同角色的感受出发来看待同一件事情。这样的结构并不新鲜,但对于是枝裕和来说,这尚属首次尝试。
当然,也正因为感受的差异,故事的悬念感便由此而生。尤其是安藤樱饰演的母亲,作为影片第一段落的主视角,她的孩子以及所遇到的人,个个都散发着古怪气息。而当观众准备随母亲视角慢慢解开谜团时,是枝裕和却笔锋一转,又把焦点放到风暴中心的老师身上。可以说,这是一个节奏感比较强的悬疑故事。
影片名为“怪物”,不仅仅是因为影片中出现了有关“怪物”的意象,更在于故事中几乎每个人都有古怪的一面,而这些古怪或多或少都来源于一些悲伤的记忆,或者周遭身处的复杂的人际关系。所以《怪物》的本质,还是在探讨人与人之间的相处,以及跟自己的相处,只不过因为孩童视角比较突出,所以打上了鲜明的是枝裕和烙印。
谈到创作初衷,是枝裕和做出了这样的阐述:“我是第一次和坂元裕二合作,他是我最尊敬的活跃的编剧。我比他大一点,但我们生活在同样的时代,在昏暗的天空下呼吸着同样的空气。我们写了关于忽视、刑事罪犯和伪家族的故事,这些故事甚至有相似的主题。尽管我们是在不同时间点写的。然而,我们采取了各自独特的展现方式。这就像吸入相同的空气,呼出的却不同。我在2019年加入剧本的开发,那时疫情让世界天翻地覆,令人惊讶的是,这个故事反映了我们现在看到的裂痕。这次能够与我想合作的制片人、编剧、包括坂本龙一合作,我感到非常自豪。”
由于《怪物》属于不便过度剧透的影片,关于各个角色的命运和选择,我们在此不过多讨论,为更多影迷留下观影时的快感。
回望是枝裕和的导演履历,我们不难发现,他称得上是与戛纳电影节关系最为紧密的亚洲导演(甚至没有之一)。从2001年的第三部剧情长片《距离》开始,是枝裕和便踏上了这条长长的戛纳红毯。直到2018年《小偷家族》摘得金棕榈时,他入围过戛纳电影节的作品数量已达到七部之多。
但值得注意的是,他的《空气人偶》和《比海更深》这两部作品并没有进驻主竞赛,而是入围的一种关注单元。尤其是2016年的《比海更深》,考虑到前一年的《海街日记》还处于主竞赛梯队,这待遇显然是属于被降级。
这也从侧面说明,哪怕戛纳存在着所谓嫡系,对明星影人有着种种优待,可一旦发现创作者存在着自我重复的势头,戛纳也会亮明态度,不留情面地将之遏止。
近年来,是枝裕和确实身处于自我重复的漩涡里。
纵观是枝裕和的绝大多数作品,往往都是脱胎于社会新闻、漫画、小说等先于电影而存在的叙事载体,而非原创故事。这样的创作手法,对于切入点的选择和深挖内核的决心有着较高的考验。而他赖以成名的杀手锏恰恰正在于此——绵里藏针的口吻和笔触。尽管以家庭题材为主,他也绝不满足于表面上的温吞和柔情,而是直面伤疤所在。
正如《无人知晓》里随夏天一同腐坏的廉价出租屋,这些孩子难道生而有罪,否则为何遭此惩处?正如在《距离》里,浅野忠信饰演的投毒小组第五位成员,兼具施害人与受害人的双重身份,他的在场便是一根情感的搅动棒,质询观众,原谅要从何而起?正如《小偷家族》里不被社会接纳的重组之家,他们要的只是一份彼此陪伴,为什么会难如登天?
观看是枝裕和造诣最高的几部电影时,我们面对温馨甜蜜的影像也不敢掉以轻心,因为他将平等地诘责所有人,类似社会事件的发生是否与我们的冷漠息息相关。观影结束后,我们或许会萌发出强烈的动机想要改变什么,或许人格产生些微的升华,由此增加一个认知世界的角度。无论如何,他都能成功唤起一些潜藏在利己主义下的良知。
然而,是枝裕和新近几部作品均不在此列。如果说《真相》《掮客》的隔靴搔痒是因为采用外语创作的水土不服,那么回归日本本土的《怪物》,其多线索的情节结构则会让我们想到《第三度嫌疑人》里的发挥。
甚至影片中男孩之间的那份复杂情愫,也会让影迷们不自觉地拿它跟去年荣获戛纳评审团大奖的那部《亲密》相比较。倘若是枝裕和获取外界信息的渠道仍然独立,那么他的思维方式便多少有些滞后,或者说呈现出一种疲态。
打破自我重复的魔咒,对任何一位创作者而言都绝非易事,特别是在某一领域取得过杰出成绩的顶尖高手。在摘得世界最高电影荣誉后,或许没有人比是枝裕和能更清醒地意识到瓶颈的到来。
为求新求变,他选择的方法是出国拍摄,采用不同的语种丰富形式。但创作外化的扩张与攫取,所导致的却是内在意志与专注的流失。无论《真相》还是《掮客》,都难免流露出一股疏离感,而这份疏离则终将成为他持续钻研的阻碍。
是枝裕和年逾耳顺不久,放在大师的维度里讨论,还有着诸多可能性。身为影迷,如果能见到是枝裕和挣脱漩涡,再度推陈出新,那才是幸事一件。因为就现状来看,失去了锐利锋芒的生活流电源,终究太容易沦为一碗寡淡的白开水。
作者| 岛主+队长;公号| 看电影看到死
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It's beautiful. 宇宙膨胀到最后,时间会倒流。我们,火车,猫猫都会回到一切的起点,人类会变成猿猴,恐龙会统治地球,一定要早早做好准备呀。敏感细腻的少年心事像清脆嫩绿的初夏的森林,不知不觉生长得葱葱郁郁。于暴风骤雨中勇敢地往前奔跑,秘密都随着管乐低沉的声音消散在宇宙,最后河流依旧,我们柳暗花明。是枝欲合展开故事的方式像片中的通往秘密基地的甬道,经过狭小而深邃的暗角,到达锈迹斑驳的旧车厢,一片充满想象的灵动的天地。在我作为孩子的依稀记忆中,我确信那是属于他们的华丽飞船,定会载他们到达想去的世界。
和《亲密》有那么一点撞题,又很有是枝裕和之风,前期沉稳地叙述,揭示不同人物看到的表象和自身出发点带来的后果,积累到最后揭开真相,蓄积了情感,爆发巨大的能量。不过这个结构还是有待商榷。两个孩子缘何被推向边缘,进入自己的小世界,不为人言说又彼此心知肚明的情感,尽收眼底。成人始终只见其表象。暴风骤雨之际,也只有无畏无惧的孩子才可以抵达彼岸。
学生和校长在教室里吹圆号,我在影院哭的好大声
3.5,被彼此困住的是枝裕和与坂元裕二。一个崇尚把一切不好的都抹去、全员善人于是一切都是好事,一个崇尚把事情最坏的一面写出来、全员善人但都像怪物。水清无鱼和四处留情共存能不能繁荣不知道,他们俩的结合似乎没有,the story is just too sophisticated to be true. 还是坂本龙一的绝响更动人,音乐响起,boy's love在终结后永生。
对我来说是一部足够打动我的片子,坐在我旁边的姑娘们一直流眼泪,说“这个片子好东亚啊”
#Cannes76 三个视角和他们的三个故事 层层剥开的真相和情感 只是我更希望他们是友情的救赎
影片分三段,各以安藤樱饰演的单身母亲、瑛太饰演的老师和男孩自己作为视角,讲一对男孩失踪始末,是枝裕和的叙事保持水准,让我始终好奇怪物究竟指代什么。我常用细雨来形容是枝裕和的短镜头,让他更善于编织绵密的情感,谁能想到他也拍了boy‘s love,德霍特《亲密》东亚姊妹篇(二者故事其实很不同)。但坂元裕二的编剧总是着迷于结构,情节一清二楚、一目了然,第三段依然没有逃脱出日本商业片的温情套路,单身家庭、校园霸凌等议题点到为止,不了了之。坂元裕二和是枝裕和显得并不调和。导演还是自己写剧本吧。2.5
B+. 确实是绝不可以被剧透的电影。视角切换的三段式结构给人近乎悬疑片的快感,每处“闲笔”或反常都在后续的“反转”中得到验证,甚至变成情感上的重击;而这种叙事上的”骗术”和故事的核心也是一脉相承的:是枝裕和讲述的是谎言的伤害,而有时我们欺骗的不止别人,更是自己。(还是要感慨,我,尤其是我,怎么会这么晚才意识到“怪物”是什么?)2023.5.17 Debussy
从知道是枝裕和这次要拍的核心内容后,就在猜测他会用怎样激进的方式突破自我。直到看完全片,你才明白他还是那个他,在表达方式上甚至有些执拗的他。一个人对于一些人而言,永远都有可能是那个“怪物”,可这就不能拥有自我了吗?而真正能够和你感情交融的,正是那些你的“同类”。是枝裕和用细密的勾连,让你的对面不再是落空的座椅,是抚摸你发梢的指尖。安藤樱和黑川想矢的极佳表演让一切几近完美。
最值得关注的两个表演镜头:1. 安藤樱抓住儿子肩膀长长定定地注视着他等待他的回答;2. 钢琴曲的尾声中校长在雨中身体佝偻承受风雨的模样。每个人都在他处有自己的生活。【看安藤樱表演最感慨的是,想起第一次被她惊艳到的小偷家族里的样子,怪物中的安藤樱完美地呈现了全然不同的模样。看着怪物里的她,我甚至会怀疑是不是自己记错了,小偷家族的演员另有其人。给演员一点时间与空间,让她消失,让她REBORN 】
3.5真的太喜欢了 所以这个光明的结尾是导演改了的吗😭😭😭所有人看似是怪物 所有人也都不是怪物 一会复盘呜呜呜…
还得是是枝裕和啊,悬疑中见温情三重叙事线令人印象深刻,这个玩法虽然已经老套但依旧能拍出新意,三条线的代入感都很强,但有些故事弧感觉有些牵强…全程在思考为什么大家都不跑路,这样的学校还有什么可待的啊……两个小男孩都太漂亮太可爱了!
很遗憾,是枝裕和在成为一名悬念大师的道路上越走越远。同一段故事以不同视角重述,的确让电影更加“好看”,却也造就了一部但凡被剧透便再也不值得看的快消电影。我们不禁怀念起从前是枝裕和电影中作者与人物之间亲密又疏远的关系,怀有无尽的好奇,并发出真诚的关切,而这一切在《怪物》中仅剩下对热点议题的拼贴,以及演员在极端情境下完成的应激反应,以考察观众的同理心。一种制作规格升级后的再次迷茫。
#76戛纳主竞赛# 未能为挚友最需要的时候挺身而出而追悔半生,亦或共同面对艰难人生甚至粉身碎骨,我坚定不移的选择后者
见证是枝裕和用尽全力把掮客背刺观众的给还回来多视角塑造的悬疑氛围质量远超预期,以紧凑的情节和谜题吸引观众,最后再落到对无人担责的成人社会的议论(全片最大怨种当属全程misunderstand和被misunderstand的Hiro sensei😢真的太冤了🆘
#Cannes2023-6 是枝裕和和初次合作的编剧坂元裕二以三段式的结构讲述了一个带有单亲家庭、校园霸凌、师生关系等社会热门话题要素的故事,三次视角的转换却剥茧抽丝地呈现了“真相”的更多维度。少年之间至纯至善的情谊赋予了影片汹涌澎湃的情感内核。“怪物”究竟是没有共情力的成年人、无意识地党同伐异的同学,还是无法面对自我边缘身份的少年,这是影片让人回味无穷之处。
同性、家庭、校園暴力、後311創傷…看得出來很想拿獎。儘管他自有風格、穩定發揮又切題,但他最終是一則死板的命題作文。音樂啊,為阪本龍一淚目。
哭了
文本技巧(坂元裕二式?)和表演控制上真的把这个故事的悬疑性和戏剧性拉满了,但相比于前两条线如此郑重其事声讨无人承担罪责的日本成人世界,即那个真正的国族“怪物”。由这两个小男孩共同建立的“真相”,则显得有些轻巧和虚假,失去了是枝裕和惯常对孩童忠实的跟随和捕捉,取而代之的是一种概念先行,不断为故事的可信性做补充的刻意感,乃至议题感。同样情感,在去年戛纳的《亲密》中以更现实主义的作法获得了确认。
日本版亲密with a happier ending,三个不同的视角有意思但没必要